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    昔がたり-読みきり

    2011'07.08 (金)

    クチナシは夕暮れに香る

    近所のクチナシ蒸し暑い夕暮れのこと。
    ふと濃厚なクチナシの香りが漂ってきた。
    パソコン作業の手を止め、窓の外に目をやると、
    白い花が、ぼうっと光って遠く浮かび上がって見えた。
    逢魔刻(おうまがとき)の薄闇に、
    まるで何かを誘っているかのように。
    M先生の家は3軒向こうにある。

    M先生は「立派な教育者」と皆に言われていた。
    40年前に新築のここへ引っ越して来て、
    10年経って妻が心臓病で亡くなり、
    5人の娘が、
    少し年の離れた末の息子の面倒を見て育てあげた。
    娘たちは、みんな一流大学を出て、
    そしてそれぞれ立派な家に嫁いで行った。
    しかし末の息子にはなかなか嫁が来なかった。
    あの時代。車のセールスマンをしていて帰宅はいつも夜中だから、
    出会いのチャンスが少ない環境だったのかもしれない。
    父と息子、男ふたりの生活が、長くなった。

    時が経ち、何度かのお見合いの末やっと、息子に立派な嫁がやってきた。
    音楽大学を出てピアノの先生をしている、若くて美しい、ほっそりした女性だった。
    嫁入り道具のトラックも、たいへんな数で、
    誰よりも、この結婚を喜んでいたのは、M先生だった。
    幸せが、始まるはずであった。

    嫁の様子がおかしくなったのは、1年後くらいだったか。
    顔色が。ものごしが。
    おどおどと、まなざしが空を泳ぐ。
    もとより線の細いからだが、消えてなくなるほど細くなっていった。
    おめでたい話も無いまま、3年。そして彼女は去っていった。

    M先生は世間が認める「立派な教育者」だ。
    家の中で、何が起きたのか、誰も知らない。
    その頃のクチナシの木は、背丈ほどの大木であった。
    むせるほど、たくさんの花が咲き誇っていた。

    5年たって、M家に次の嫁が来た。
    今度の人は、体格も良く、見るからにパワフルな女性だった。
    ほどなく近所の家の嫁たちとグループを結成し、
    どこかの誰かの悪口を大きな声で楽しく言い合っていた。
    品は悪いが、とにかく元気な人であった。
    半年で、子どもも生まれて、M家はにぎやかになった。

    その頃から、M先生のシャツとパンツとステテコが、
    2階のベランダの物干場に、毎日ひと組だけ、ぶら下がるようになった。
    息子夫婦の洗濯物とは、別の場所、別の時間に。
    M先生が、晩のおかずを買いにスーパーへ、独りでスクーターにまたがって行くのを、
    近所の人たちは黙って見送った。

    M先生は世間が認める「立派な教育者」だ。
    家の中で、何が起きていたのか、誰も知らない。
    冷夏で米不足が起きた年、クチナシの木は、上半分が枯れた。

    3番目の子どもが生まれると、息子夫婦は新居を建てて出て行った。
    M先生は、一人、古家に取り残された。
    クチナシと、M先生はだんだん小さくなっていった。
    相変わらず、一人分のおかずを買いに、スクーターで出かけて、
    相変わらず、シャツとパンツとステテコが2階のベランダに、はためいていた。

    雨不足の猛暑の夏、M先生は嫁いだ長女の家に引き取られ、
    その後、5人の娘の嫁ぎ先を転々とした後、
    老人ホームへ入所し、1年後に心臓発作で亡くなった。
    ホームにおいても、お年寄り仲間に「先生」と呼ばれて、尊敬されたそうだ。
    98歳の大往生であった。

    家はその後、永く無人となっていた。
    クチナシは、花を咲かせることも、香りを発することも無かった。
    私は、木は枯れたのだと思っていた。
    家は人手に渡り、ほとんどの庭木が切られて中古住宅として売りに出された。

    そして今年、忘れ去られたクチナシの切り株から、白い花が咲いたのだ。
    家は新しい住人を欲している。
    お盆が近い。
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    昔がたり-読みきり

    2011'05.03 (火)

    フィリピンのバナナ

    庭のナスタチューム私は、1日に6回食事をします。
    ME/CFSで腸が弱っていて吸収が悪いので、
    最低限の体重を維持するために必要なのです。
    でもいっぱい食べると、もたれるので、
    内1食は軽く、バナナ1本にしています。

    NHKの「おひさま」を見ながら、
    フィリピンバナナを食べていて、
    思いました。
    もしあの戦争が無かったら、
    父は自動車工場の専務だったかもしれない。

    私の町の中心部に忠魂碑があります。
    今も花が絶えない大きな石碑に、
    父の2人の兄の名が刻まれています。

    「バナナをおなかいっぱい食べました。」
    昭和18年、父に葉書が届きました。戦地から、2番目の兄の手紙。
    それからすぐに、手紙の主は、
    フィリピンからシンガポールに向かう船で、ボルネオ沖に沈んだそうです。

    もし兄さんが生きていたら、自動車工場の社長になったかもしれない。

    ああだったかもしれない、こうだったかもしれない、
    たくさんの人の人生を大きく変えてしまったあの戦争。
    戦争はどんな事があってもやってはいけないのです。
    生き残った人の義務です。その子どもも受け継がなければならない義務です。

    家族、民族、郷土に対する純粋な愛情が、集団で間違った方向に走らないように、
    事象を常に自分の頭で判断する習慣と、その基礎になるすべての情報の透明性が、
    日本にはもっと必要だと思うのですが…。
    (福島原発事故に関する情報のでかたで、日本の将来に危惧を感じます。)

    終戦があと1ヶ月遅れていたら、私たちの住む地方は、
    アメリカ軍上陸で沖縄のような惨状になっただろうと言われています。
    そうなっていたら、たぶん父母も今この世になく、私も生まれていなかったでしょう。

    私はバナナを食べながら、会ったことのない、やさしかった父の兄の事を想います。
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